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6月, 2017の投稿を表示しています

クラシックギターから学ぶ②(爪の長さ・形編)

今回はクラシックギターやソロギターで重要な爪の話題を取り上げたいと思います。 他の教則本同様、この本の中でも基本的な爪の形、長さや、ケアの仕方などが書かれていますね。 そう言った中で私が気になったのが、 「爪の長さがタッチに影響がありますか?」 という質問でした。 これにクラシックギタリストの永島志基さんはこう答えています。 指の各個人の個体差 爪の質感 出したい音 音楽性 演奏曲の作曲家の音楽的時代考証 気候 現場での椅子の高さ その日の雰囲気や気分 によってタッチを変えると。 つまり、プロとはいえども、もしくはプロであればなおさら、タッチの仕方も音色も一定ではないということがわかりますよね。 となってくると我々アマチュアがタッチ、タッチと言っているのは一体何を求めているのかなと考えてしまいました。 まずは、タッチ云々よりも、自分が出したい音は何なのかを理解することが、自分のタッチを見つける第一歩なのではないかなと。 また、、、 長めの場合は長い爪をリリースするために右手がフラットになる 短めの場合は、右手をやや立てるようになる といった記載も気になりました。 ここからは、爪の長さと右手のフォームが連動していることがわかりますね。 となると、 右手のフォームを決めてから爪を調整するのか、出したい音に爪を合わせてから右手の角度を調整するのか。 答えはその両方だとは思いますが、実に奥の深い話ですね。 上辺だけの教則本とは異なり、何度も読み返すことで、いろいろ学べることが多そうです。 勉強になります。

クラシックギターから学ぶ①(演奏フォーム編)

私はスチール弦のアコースティックギター専門なわけですが、いつも不思議に感じることがあります。 それは、なぜアコースティックギターの人は、クラシックギターから学ばないのかと言うことです。 では、クラシックギターはいつできたのでしょうかね。 いつから、どこからをギターと呼ぶかは難しいのですが、16世紀のビウエラがルーツとする説があります。 また、演奏と言う観点では、、、 教則で定番のアグアド、ソル、ジュリアーニ、カルリ、カルカッシは18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍していました。 そして、現在のクラシックギターは、ギター製作家のアントニオ・デ・トーレス(1817-1885)が確立したとされています。 つまり、少なくともクラシックギターの歴史は100~200年はあるわけです。 ここで得られた知見を活用しない手はないと思うのですが、いかがでしょうか。 そんな時にオススメの本がこれ。 「クラシックギターQ&A 52人のプロが答える164問」 クラシックギターに関わる164の質問に、日本で活躍する代表的プロ・ギタリスト、ギター製作家52人が回答すると言うもの。 完売していた「最新版ギター読本上達のためのQ&A」の改定新版だそうです。 正直、昔、受験勉強で使った一問一答形式になっていて、とても読みにくいです(笑) が、読みやすくて内容の薄い本とは異なり、かなり濃いです。 そんな中でも気になるテーマをいくつかご紹介したいなと。 まずはフォームから。 「右足に乗せるか、左足にのせるか」 よく議論になりますが、クラシックギタリストの中島晴美さんは、左足乗せにする利点をこう語っています。 ・左手のポジション移動を容易にする ・右手上腕部を緊張させず、自由度を高める なるほど。 それと、高度な曲を弾くには左足乗せの方がいいとも言っていますね。 これはギターを演奏をするにあたり、理にかなったフォームなのでしょう。 それでもアコースティックギター界隈では、どちらがいいのかという議論が続いています。 どうしてなのでしょうかね。 そんな中で私が前から思っていたことを文書にしてくれていた部分が、ありました。 「崩していた方が弾きやすい(右足乗せ)というのは、

伊藤賢一さんの、Another Frameを聴く。

伊藤さんの作品を聴いて感じること。 それは「音楽」だと言うことです。 そんなこと当たり前じゃないかと言われるかもしれませんが、、、 そう思わせない作品が多いとは思いませんか? また、ソロギターの作品というと、どうしてもギタリストによる、ギタリストのための作品というイメージがありますよね。 でも、伊藤さんの作品は明らかに違うと思います。 そして、伊藤さんのどの作品でも感じられるのですが、伊藤さんの音楽にある情景が私の琴線に響くんです。 うまく表現できませんが、自分の幼い頃の情景が思い浮かぶというか、辛かった頃を思い出すような不思議な感覚。 そして、暗さや、孤独感、物悲しさを感じさせながらも、どこかポジティブな何かを感じさせられるんです。 うまく伝えられないですが、伊藤さんの楽曲には絶望ではなく希望が根底にあるのではないかと。 メロディラインもとても普遍的なものでありながらも、どこか心に引っかかる何かがある。 それが伊藤さんのメロディラインだし、アレンジの妙なのだなと。 ぶっちゃけ、「Inner Midium」、「おかえり」、「道のりのどこか」、このキラーチューン三曲だけで十分といえる出来栄えだと思います。 それに期待を裏切らないアイリッシュチューンのCarolan’s Ramble to Cashel、ソリチュード二重奏、ジーン・マリー・レイモンド氏のカバーが添えられていますからね。 これだけでも、アルバムの品質の高さがわかります。 そして、伊藤さん自身がようやく「これが良い音です」と確信を持てたという、素晴らしい録音。 ギタリストとか、ソロギターの作品としてではなく、その他多くの音楽作品と同列で扱うべき作品だと思います。 これだけの品質の作品を聴いて同業他社はどう感じるのか。本音を聞いてみたいなと思ってしまいました。 最後にマホガニー的な観点では、1952年製のMartin D-18と、M.J. FranksのD-18 Legacy Dreadnought(サイドバックはキューバンマホガニー)も使われています!